ここでは、認知症の方やご家族の方が共に幸せに暮らせるために、ぜひ知っていただきたい認知症の専門医や、介護者、当事者の声を掲載しています。現在介護中の方は勿論、将来に不安を感じておられる方にもご覧いただければ幸いです。※ 記事はすべて著作者からの承諾を得て掲載しています。

 

1.ご家族(介護する方)へのメッセージ 
東京医療学院大学保健医療学部リハビリテーション学科 教授  上田 諭  

(前略)脳の機能低下には根本治療がありませんが、このような精神的な側面は理解し心情に寄り添うことで改善することができます。それができるのは、ご家族や介護者の力です。ご家族や介護者の本人への見方や対応の仕方次第で、自信喪失や孤独感は深くもなり、すっかり消えもするのです。これには、薬は効果はありませんし、薬で治すものでもありません。
 周囲の家族が最初、ご本人の変化に驚き、指摘したり注意したりしてしまうことはやむを得ない当然のことです。しかし、それは認知症という病の診断を受けたいま、もうやめましょう。物忘れやできなくなったこと、失敗することを、嘆いたり治そうとしたりすることをやめて欲しいのです。励まそう、できるようになってほしいと思って声をかけておられるのかもしれません。しかし、いくら指摘し声をかけても、結局できないことがほとんどなのです。ご本人には、励ましと受け取ることができません。叱られた、恥をかかされた、と思ってしまいます。
 言うまでもないことですが、ご本人は意地悪でできないふりをしたり、同じミスを繰り返したりしているわけではありません。できなくて、まず悩み苦しんでおられるのはご本人です。もう同じミスをして恥をかきたくない、周囲に指摘され注意されたくない、と思っておられるのです。そうではないでしょうか。
 ご本人を、そのままでいいよと認めてあげてほしいのです。忘れてもいい、できなくていい、という気持ちで接してあげて欲しいのです。これまで、仕事や家事に長年働いてくれて、もう十分頑張ってくれた、と思ってあげてくれませんか。認知機能は下がっても、楽しく、生きがいをもって生活していくことを目指してあげてほしいのです。それには、できないことを支え、助け、あるいは一緒にしてあげるという手間がかかります。自分たちの生活を変える必要も出てきます。初めは大変なことでしょう。しかし、それを当然のこととして、生活の工夫を考えるのです。
 相手に少しでもよく変わって欲しいと望むなら、まずは自分が変わらなくてはいけません。人と人の関係では、自分が変わることで初めて相手も変わるのではないでしょうか。認知症を発症して以来、ご本人は、記憶能力や物事の遂行能力を少しずつなくしてきたほかに、自分を認め、肯定し、承認してくれる人やその態度をなくしています。それがいかにつらいことか。自分の人生が打ち消され、自尊心まで否定されそうな思いになってもおかしくありません。それを理解してあげてほしいのです。そうすれば、きっとご本人もよい方向に変わります。

 超高齢社会となった今、認知症は今や国民みなの病です。85歳以上になれば、ほぼ2人に1人が認知症です。長寿と認知症は切り離せません。長寿をお祝いする社会なら、認知症も肯定しなければスジが通りません。いま中年世代の私たちも25年後(早い人は10年後)には認知症になると考えるのが自然でしょう。長寿の国で長寿の人をいたわるのは、順番にめぐってくる「当たり前のこと」なのです。それとも、長寿を礼賛しつつ、「困った高齢者」ばかりの国にしたいでしょうか。それを決めるのは、私たちの認知症の人に対する見方と意識次第です。(後略)

この文章はダウンロードできます。 ご家族へのメッセージ 上田 諭 教授

★出典元 上田 諭著 「治さなくてよい認知症」(P172)2014年 日本評論社刊
巻末に記載の『ご家族(介護する方)へのメッセージ』より一部を抜粋。肩書は書籍掲載時。
ご家族へのメッセージ 上田 諭 教授
書籍 「治さなくてよい認知症」日本評論社刊


2.認知症のご家族、友人、知人、介護職のあなたへ
日本医科大学 高齢者専門医 上田 諭

以下は、上田 諭先生の別のご著書から引用させていただいた内容です。現在介護中の方は勿論、介護はまだ先のこととお考えの方にも、今すぐ知っていただきたい内容ばかりを集めました。
この記事は、出版元の株式会社マガジンハウス様からご協力いただき、上田 諭先生のご著書「『幸せな認知症 不幸な認知症』第3章 認知症のご家族、友人、知人、介護職のあなたへ」より、その一部をご紹介しています。

 

 家族や友人が認知症と診断されたとき、対応の鉄則が3つあります。
「指摘しない、議論しない、怒らない」
あなたの生活をこれまでと少し変える気持ちで、ご本人を見守ってあげてほしいのです。

認知症になっているご本人にあえて告知をしないことは、前のページで書きました。では、ご家族にお伝えしたときに、どういう反応をされるか。
「うすうす気づいてはいたのですが、やっぱりそうでしたか」
 と冷静に受け止められる方が半分くらい。残りの半分の方は驚かれ、ショックを受けられます。認知症重度の方をテレビなどで見て、その印象が強いからでしょう。
 そういうご家庭には、こんなふうにお話しています。
「認知症はすぐに悪くなるわけではありません。少しづつ物忘れがひどくなっていきますが、10年から15年間は軽度から中等度の状態が続くでしょう。その決して短くない、10年から15年の生活が大事なのです。ご本人がいきいきと元気に過ごせる生活を一緒に考えていきましょう」
 アルツハイマー病の軽度から中等度にかけてなら、ご本人は物忘れをよくすること、できないことが増えていることを自覚しています。自分でちゃんとわかっているのです。そのことに気づいていないのは、むしろご家族の方なのです。
「動揺し自信をなくしているご本人の心情を考えて、自尊心を傷つけないような対応をしてほしいのです」
 初診のときに、そう申し上げています。やがて軽度から中等度へと進んでいくと、今までできていたことができなくなったり、失敗することが増えてきます。そんなときは何も言わず、さりげなく助けてあげてほしいのです。
「また忘れてる」
「違うじゃない」
「何度同じことを言うのよ」
 家族なら、ついそんな遠慮のない言い方をしてしまうものだし、治ってほしい、励ましたい、という善意から出た言葉なのだとわかっています。それがごく普通の反応でもあります。
 でも、病院に検査に来て、認知症だと診断されたら、そこからは対応を変えてください。その物忘れがひどくなり、こぼしたり汚したり、着替えがうまくできなくなったり、といったことも起きてきます。そんなときも大騒ぎをしないでほしいのです。
 認知症の方に対する対応の鉄則があります。
「指摘しない」
「議論しない」
「怒らない」
 気になることがあると、私たちはつい指摘してしまいます。でも、できないことを自覚しているご本人がいちばんつらいのですから、「さっきも聞いたわよ」「何やってるの!」などと指摘しないようにしたいのです。
 また、ご本人が妄想に悩まされ、「誰かが盗ったのではないか」と言ったようなときに「そんなことあるわけないでしょ!」と正論を言って議論しないでください。議論をしても意味がないのです。
 そしてこれまでできていたことができなくなっても、怒らずに助け、一緒にしてあげてほしい。
 気持ちを切り替え、生活を変え、これから共にいきいきと生きていくのだ、心を決めていただきたいのです。

★出典元 上田 諭著「幸せな認知症 不幸な認知症」P84~P87(マガジンハウス)
書籍「幸せな認知症 不幸な認知症」

 

 軽度から中等度が続く10年をどう生きるか、真剣に考えて行動する認知症患者もいます。
そんな理性的な行動を邪魔するのが、周囲の関わり方です。
軽度なのに重度のような症状が出てしまうのは、実は本人の病気のせいではないのです。

軽度の認知症のときに、これからどう暮らしていこうか、重度になるまでの年月をどう過ごすべきか、理性的に考える患者さんが小数ですがいらっしゃいます。初期の頃なら十分にできることなのです。
 その一方で、軽度なのにまるで重度のような症状が出るケースもあります。
 何が原因なのでしょう?
 私は周囲の関わり方、生活環境が主なものだと思っています。
 周りにいる人の発言や行動に対する精神的な反応で、本来なら見られない怒りや暴言、イライラ、性格の変化が表れるのです。
 私が大学時代、読んだ教科書には、
「アルツハイマー病は、初期の段階から患者は怒りっぽくなり、イライラし、暴言を吐く」
 と書いてありました。
 当時は私も疑うことなく、そうなのだ、と思っていました。
 今の教科書はどうなのだろうと、最新の『認知症ハンドブック』という本を読んでみました。するといまだに、アルツハイマー病の精神症状として、
「診察室で突然大声を上げる。焦燥、興奮が初期からしばしばみられる」と書いてあるのです。
そんなことは、ありえません。
 仮に診察室で大声を出したり、興奮して暴れたり、暴言を吐いたとしたら、それはアルツハイマー病そのものが原因ではありません。
 病院に連れてきた配偶者や家族と何らかの確執がある、あるいは自分の意志に反して無理やり医師の前に引っ張り出された、人としての尊厳や自尊心を傷つけられ、侮辱的なことを言われた、といったことが原因なのです。
 そんな失礼な態度に怒るのはごくごく正常な反応です。
 認知症の初期段階では、脳の95%は正常です。感情面でも変わりはなく、その場での理解力も以前のまま。残りの5%は近時記憶の障害です。最近の出来事を忘れてしまう、忘れることで同じことを繰り返したり、できないことが増えたり、約束が守られなくなったりするだけなのです。
 認知症の場合、ご本人にとってつらいのは、自尊心を保てなくなることです。それは、役割が急転換することで起こります。それまで自分が家族の面倒をみる立場だったのに、いきなり何もできない厄介者、何もわからない困った人のように扱われる。
 あるいは、周囲のみんなに頼られる人物だったのに、あなたは私がいなければ何もできない、家族を頼らなければ生きていけないでしょう、という態度をとられたりする。そう直接は言われなくても、そういう周囲の空気を感じてしまう。
 それに近いようなことでも言われたら、誰だって情けなくなり、怒りたくもなります。
 アルツハイマー病という病気だから怒りっぽくなるわけでも、暴言を吐くわけでもなく、周囲の人がご本人の自尊心を傷つけることで怒ったり、怒りにまかせて乱暴な言葉使いをすることがほとんどなのです。

★出典元 上田 諭著「幸せな認知症 不幸な認知症」P88~P91(マガジンハウス) 
書籍「幸せな認知症 不幸な認知症」

 

[以下の記事③はテスト公開中]
③ 
 認知症ケアの指針となっている「キットウッドの公式」と、フランスの介護の手法である「ユマニチュード」。
メディアで取り上げられることが多くなった注目すべきケアをご紹介します。

認知症のケアにおいて重視されているものに、「キットウッドの公式」があります。これは「その人らしさを尊重するケア(パーソン・センタード・ケア)」を推進したイギリスの臨床心理士、トム・キットウッドが、1996年に考案した認知症ケアの指針です。世界で注目されている考え方ですが、日本の認知症医療の現場ではあまり浸透していません。
ごくごく簡単に説明すると、認知症の症状は必ずしも神経学的な障害からだけで生ずるのではなく、対人心理が大きく関与している、とキッドウッドは主張しています。
つまり、認知症の関連症状にとって、対人関係、対応の仕方、ケアの質が大事であるというのです。私もまったくその通りだと思い、これまで何度も繰り返しお話をし、また書いても来ました。
その認知症症状を悪化させる対応を「悪性の対人心理」と名付け、してはならないことと戒めています。たとえばこんなことです。
・だます
・できることをさせない
・こども扱いする
・おびやかす
・レッテルを貼る
・汚名を着せる
・急がせる
・本人の主観的現実(思いや希望)を認めない
・仲間はずれにする
・物扱いする
・無視する
・無理強いする
・放っておく
・非難する
・中断する
・からかう
・軽蔑する
このような対応がイライラや暴言、暴力、妄想、徘徊など、認知症の行動心理症状(BPSD)を生む背景になっていると指摘しています。
さすがに今の時代、こんなひどいことをしているところはないだろう、と思うかもしれませんね。でも、子ども扱いする、無視する、放っておく、非難する、軽蔑する、などは根強く残っていても不思議ではありません。
とくに、認知症の方に対する子ども扱いに関しては、以前、朝日新聞の記事にもなっていました。記者が介護現場を取材すると、介護者が認知症の方に対して赤ちゃん言葉を使っていた、というのです。
人生の大先輩に向かって、どうしてそんなことができるのでしょうか。認知症がひどくなって自分のことができなくなった、目の前にいる人しか見えていないのでしょうか。その人がどういう人生を歩んできたのか、どのように家族を支えてきたのか、思いを馳せる想像力がないとしか思えません。あるいは相手が何もわからないと思うとぞんざいに扱ってしまうのでしょうか。しっかりしている人にはしっかり対応する、そうでない人にはしっかり対応しても無駄、という姿勢がおかしいのです。
これは介護の現場だけでなく、病院でも同様です。目の前にいる病をもった人を見るのではなく、長い人生を歩んできた「その人」を敬い、尊重して接するべきではないでしょうか。簡単なことではありませんが、とても大事なことだと思っています。
キットウッドの指針と並んで、今、注目されているのが「ユマニチュード」です。フランスで考案された介護手法で、たとえば、
・見下ろすのではなく、視線の高さを合わせて正面から見つめる
・介助するときは、心地よく感じる言葉を穏やかな声で語りかけ続ける
・動かすときは、手首をつかむようなことなどせず下から支えるように触る
・筋力、骨、呼吸機能を鍛えるために立たせることを努める
というような内容が基本になっています。
(後略)

★出典元 上田 諭著「幸せな認知症 不幸な認知症」P101~P104(マガジンハウス) 
書籍「幸せな認知症 不幸な認知症」

 

おとなの学校の小山敬子著「介護がラクになる『たったひとつ』の方法」より

介護する側もされる側も幸せになる!

「意欲」のない人生はありえない
「生きていること」と「死なせないこと」は、イコールではありません 。
 いまの介護現場は悲しいことに、「死なせないこと」が目的になってしまっている部分があります。それを「生きている」といっていいのか、甚だ疑問です。
 たった一度の人生です。最後まで「生きている」ためには、最後までその人の人生だと考えているかどうかで決まります。
 自分から何かをしたいという意欲のなくなった、いえ、意欲を奪われたといったほうがいいかもしれませんが、そんな高齢者が生きている意味って何なのでしょう?
 ご飯を食べるため? 死ぬことができないから?
 そんな答えでは悲しすぎる。それでは生きていけません。
 彼らは私たちの行く道です。私たちにいま生きる目的や目標がなければ、どうやって生きていけばいいのでしょう。それと同じことが高齢者に起こってしまっています。たとえ介護を受ける体になっても認知症になっても、人格という核があるかぎり、彼らにも生きる意味が欲しいのです。私たちが年をとったときに生きる意味ある人生を続けたいと思うなら、この問題に現役世代である私たち自身が取り組むべきなのです。
「おとなの学校」という取り組みを通じて、私は高齢者がまったく違う顔を見せるようになったのを見てきました。たいていの人は学校が大好きです。ぴんと張った背中、授業を受けるときの真剣なまなざし。ほめられたときの笑顔。
 いまやっているのは遊びじゃない。明日すべきことがある。今日学んで楽しかった。明日も学びたい。
 なぜ学ぶのが楽しいのでしょう。遊び(レクレーション)は人生の時間という最も価値あるものの消費であるのに対して、学ぶことは自分への投資だからではないでしょうか。
 なぜ、投資したいのか? それはいつか誰かの役に立つため。
 消費は人の心をけっして前向きにはしません。自分に投資する毎日は人を前向きにします。実際に役に立つかどうかよりも、人の役に立つ気持ちで生きることに意味があります。この前向きの心を「意欲」というのです。
「生きる」ためには本人の意欲が必要です。前向きの心をもてば、できることはたくさんありますし、「過介護」に身をゆだねてしまえば、昨日できたはずのことも今日できなくなり、徐々に「もう、できない。できないから、やらなくていい。誰かやってくれるのだから」という気持ちになってしまうのです。「過介護」は生きる意欲を失わせます。
 介護する前に、高齢者にできることを見出す眼をもち、彼らを支援することが私たち現代世代が自分たちの意欲あふれる未来を創る礎となるのだと信じています。 

ちょっとがんばってもらう介護
 リハビリに力を入れている施設が増えています。しかし、リハビリをすることが目的になってしまっている施設もまた多いのです。
 リハビリのために〝1日〟があるのでしょうか。そうではないですね。
 では、何のためにリハビリをするのでしょう。家に帰るためですか? 家に帰って何をするのですか? 趣味ですか?
 老後は趣味をもちましょうといわれても、もてない人も多いものです。また、要介護状態になったとき、以前の趣味の話をもち出すと嫌がる方は実に多くいらっしゃいます。以前できていたことができないのが嫌なようです。
 ずっと仕事人間で趣味とは無縁だった方も多いのが日本人の特徴でしょう。いまの高齢者世代が現役だったころ、彼らの多くは仕事、仕事で生きてきました。会社から自宅に帰ると、スイッチは オフになる生活ですね。「めし、ふろ、ねる」という毎日。ウィークデーに働く生活だからこそ、休みの日にのんびりすることに意味があります。
 しかし、〝毎日が日曜日〟になったら、仕事人間の私はどうしていいかわからなくなるでしょうね。あなたも毎日がんばっているのは休みがあるからではなく、本当は仕事があるからなのではないですか。これは現役世代の方にも気づいてほしい。現役世代は、自分が毎日働いていて、休みたいから勘違いしてしまうのです。それで、いつでも休める高齢者に休みなさいといってしまう。365日が日曜日なんて、けっして幸せなことではありません。
 だから高齢者には、「家でゆっくり休んでください」というのではなく、身支度を整えて外に出すことが大事なのです。外に出て、今日も一日何かを学んだと思うと、その充実感は大きいですよ。
 また、最近は科学も進んできて、リハビリ支援ロボットが開発されています。代表格の HAL(Hybrid Assistive Limb)は、筑波大学で開発された技術を応用して製作された世界初のサイボーグ型ロボットです。その名のとおり、動かない四肢をアシスト(支援)します。このロボットのよいところは、四肢を動かそうとするときの微小な生体電位信号を中心とした各種生体信号の検出と自動制御システムで人の思うとおりに四肢の動きをアシストすることです。
 驚くべきことに、何十年も足が動かなかった方がHALを装着することで足が動くことを体験し、徐々に足が動くようになってくる症例もあります。
 サイボーグ型ロボットにちょっと手伝ってもらって歩けるようになったときの「自分は歩けるのだ」という喜びと充実感が、その方を前向きな心にするようで、週1回以下の装着訓練でもかなりの効果がみられています。リハビリは毎日しなければ効果があがらないという常識からはかけ離れた話ですが、たぶん、装着していないときにも、足が動いたというときの感覚を思い出しながらリハビリを自ら行っているのかもしれませんね。無理をせず、心が前向きになることで動けるようになる。ある意味、リハビリの理想の形なのかもしれません。
「がんばらない介護」といわれますが、がんばらなくていいのは介護者であって、介護される側の意欲を引き出して〝ちょっとがんばってもらう介護〟は、介護される方ではなく、支援している側の心も明るくします。
 そのためにも、大切なのは、その目的です。
 一番よいのは社会貢献だと思います。人は世のため人のために生きるのが大好きですから。働くことこそが社会貢献。要介護状態になっても、社会貢献をする場はあるものです。 障害のある方々が働く場所もありますし、これからは意欲のある要介護高齢者がもっと前面に出てくる局面が増えてくることは間違いのないところでしょう。
 いまの介護現場はこれが逆になってしまっています。「年だから」「危ないから」となんでもやってあげて、その結果本人の意欲を奪ってしまう。そうしておいて「手がかかってたいへんだ」と悩み嘆いている。この矛盾に気づいた人から、介護は俄然「ラク」になっていくのです。

介護とケアの違い
 この「介護」という言葉のニュアンスにも問題があるのかもしれません。じつは英語でいう care(ケア)と日本語の介護には雲泥の差があります。日本語の介護という言葉は「お世話する」という感じがします。しかし、ケアはもっといろんなことを含んだ大きな言葉なのです。
 ヨーロッパに医療、介護の視察に行くと、日本人とヨーロッパ人の考え方の違いで、医療従事者同士の議論はまずかみ合いません。すでにヨーロッパ諸国では、胃に穴をあけて高齢者の延命をすることは「ありえない」し、長期療養を病院で行えると思っている人も少ないのです。単なるお世話に彼らは意味を感じません。彼らが意味を感じるのは、どんな障害があっても、自分で生きていける社会の構築なのです。
『ケアの本質~生きることの意味~』(ミルトン・メイヤロフ著 ゆるみ出版)という本があります。その中にケアについてこう書かれています。「一人の人の人格をケアするとは、最も深い意味で、その人が成長すること、自己実現することをたすけることである」。なるほど。納得です。ケアとはお世話ではありません。人を支援することで自らも成長する、大きな学びの場なのです。
 日本人女性はとくに人のお世話が得意ですので、介護というと、ケアではなくお世話に終始してしまうことも多いのですが、それが日本の介護を欧米とは違うものにしているのかもしれません。お世話をしたら、「ありがとう」といってもらえますが、そこには助かったという安堵の気持ちはあっても、充実感はないでしょう。悪くすると、介護されてありがたいと思うたびに、自己肯定感は壊れていってしまいます。介護に携わる方々にはこのことに気づいていただきたいのです。
 では、ケアという言葉を使った方がいいでしょうか。日本人には、このニュアンスが伝わりづらいと思いますので、この本では介護という言葉を使い、それ以上のケアの意味を、支援という言葉も含めて表現していきます。
 その上で、ケアが含む広い意味への理解を深めていきたいと思います。 

気づけば介護は変わる
 介護される本人も、介護する家族も、どちらも幸せになれる介護をすることは不可能ではありません。そこに「意欲」を介在させればいいのです。
 できないことではなく、できることに着目しましょう。介護するのではなく、支援するのです。支援とは意欲を引き出す介護と読み替えてもいいでしょう。これがケアの持つ意味の中で大きな位置を占める言葉です。では、単なる介護と支援とは、どう違うのでしょうか。
 じつは先日、当グループ内でも介護と支援の違いが現場の雰囲気に大きな違いを生んでいることに気づきました。事業拡大で始めたばかりの新人の多い施設では、支援がなかなかできていなかったのです。
 誰かを支援するためには、じっと見守ることが必要です。ところが、これは介護するよりも時間もかかるし、ただ見守るのは意外と苦痛なもので、意欲を引き出す介護(イコール支援)に慣れていないスタッフには、その必要性を簡単には理解してもらえません。すぐに手を出して介護したくなるし、ただ見守ることができずについつい励ましてしまいます。「がんばれ」に近い言葉が出てしまうのです。
 意欲を引き出す介護に慣れたスタッフたちは、じつは「がんばれ」コールはやりません。がんばっている人にそれ以上のがんばりは不必要だからです。ただ、じっとそばにいて、その方ができることをその人のペースで行うのを見守っている。そのためには、その方ができること、できないことを把握しておく必要があります。時間がかかってもできることを選んで、じっと待つのです。大げさにほめることもありません。「あ、できましたね」くらいの自然な声かけで充分です。と、いいますか、それくらいの、あまりほめる必要のないことを行うときに支援が功を奏するのです。
 それは家にいるときでも同じこと。無理をさせるのではなく、その方ができることを支援します。そうすると、できることが徐々に増えてくるので、それを誰より本人が自覚し、もっとできるようになりたいと思うのです。それが自然な小さな目標となり、日々の生活にメリハリが出てきます。また、介護する側も最初は時間がかかっていても、徐々にできるようになってきますので、支援(介護)時間は短縮、手を出さないので体力的にも疲れません。
 さらに、介護を受ける立場になった方に日々の小さな目標以上の目標がつくれるのかということも大切です。自分ひとりで髪をとかせるとか、パンツをあげられるとか、そういう小さな目標以上の目標がある場をつくることで、高齢者の「やる気スイッチ」はオンになります。その方にとって人生の中の何か意味を感じさせるような目標です。「やる気スイッチ」オンな人はなんでもチャレンジし、日々を明るく元気に過ごすことができます。たとえ、介護が必要な体であっても。
 自分でできる喜びや、目標の存在が「やる気スイッチ」をオン にする。それに気づけば、介護のあり方は激変するのです。その方の体がどんどん動くようになってきますし、支援(介護)するほうも心身共にラクになってきます。(後略)

★出典元 小山敬子著「介護がラクになる『たったひとつ』の方法」(サンマーク出版)
書籍 「介護がラクになる『たったひとつ』の方法」
書籍 「夢見る老人介護」
株式会社おとなの学校 ホームページ 

 

ノンフィクション作家 奧野修司著「ゆかいな認知症 介護を『快護』に変える人」より、認知症当事者丹野智文さんについて書かれた記事の一部です。

(前略)
「どうして」「なぜ」と言われても
「仕事のやり方を覚えられないので、手順をノートに書いています。それを見れば仕事ができるようになっているのです。会社ではノートを2冊に分け、1冊は仕事のやり方を書いたノート、もう1冊は、1ヶ月間に何をするのか(計画)、毎日何をしたのか(行動記録)を書いておくノートです。仕事が終わるたびに印をつけて確認しています。
日常生活ではいつも失敗しています。コーヒーメーカーにコーヒーを入れるのですが、水を入れるときに、粉を何杯入れたかを忘れているのです。だから薄かったり濃かったり。コーヒーができると、カップに入れてテーブルに置き、さてと席につくのはいいのですが、別のことを考えたりすると、自分がコーヒーを持ってきたことも忘れているのです。あれ、誰がコーヒーを入れてくれたんだろう? 妻かな?
『コーヒーを入れてくれてありがとう』
 すると妻は笑いながら私に言うのです。
『いいよ、いいよ、でも、パパが自分で入れたんだけどね』
 失敗しても、妻は笑顔で対応してくれるので気になりません。これが『何言ってるの、自分で入れたでしょ』と強く言われたら、イライラの原因になります。
 家族にすれば、当事者が何度も失敗したり、同じことを繰り返したりすると、つい注意もしたくなります。でも、待ってください。ちょっとした言い方の違いで、不安を抱えた当事者は、怒られていると感じてしまうことがあるのです。自分でも失敗が多いことはわかっているので、自分の行動に自信がなくなっているのです。
 注意するなというのではありません。言い方次第なのだと思います。言葉って不思議なもので、言い方ひとつで喜んだり傷ついたりするのです。たとえば、言った本人に悪気はなく、何気ないひと言だったのに、当事者がとても傷つく嫌な言葉があります。
『どうして覚えていないの?』
『また忘れて』
『さっきも言ったでしょ!』
 当事者がよく言われる言葉です。ちょっとした言葉で当事者は傷つき、自分の行動に自信がなくなり、失敗を恐れてしまいます。さらに指摘されるとイライラし始め、やがて怒りに変わっていきます。『どうして』『なぜ』と言われても自分自身もわからないのです。それが認知症という病気だからです。
 当事者が自信を持って行動するには、失敗しても家族が怒らないことです。そして当事者の行動を奪わない。これが当事者の気持ちを安定させ、症状の進行を遅らせるのだと思います。失敗しても怒られない環境が、認知症の人には絶対に必要なのです」
 怒りは、認知症への無知が生むのかもしれない。それだけではない。認知症についての誤解が偏見を生み、認知症と診断された人の行動の自由を奪うこともある。
「介護が必要なのは、症状が進んでからだと思います。ところが、今までは認知症と診断されるとすぐに介護保険の話になるので、認知症=介護が必要になる、と連想して、何もできないと決めつけていたのではないかと考えます。
 認知症に対する間違った知識や偏見が、当事者の自立を奪っているのです。もちろん介護をしている人たちは頑張っておられるし、当事者から怒鳴られる苦労もしています。でも、やさしさからやってあげていることが、当事者にとってはよくないこともあり、やめてほしいから怒鳴ってしまうこともあるのです。まだ怒鳴る当事者はいいと思います。認知症になって家族に迷惑をかける、申し訳ない、という思いから、嫌だと言えずにいる方もいるのです。
 できることを奪わないで下さい。時間はかかるかもしれませんが、待ってあげて下さい。1回できなくても、次はできると信じてあげて下さい。できたときは、当事者は自信を持ちます。自信を持って行動することはとても大切です。できないと思って周りがやってしまうと自信を失い、本当に何もかもできなくなってしまいます。失敗しても自信を持って行動する。周りの人は失敗しても怒らない。自由な行動を奪わないことが気持ちを安定させ、進行を遅らせるのだと思います」
 丹野さんが変わったのは、竹内さんと出会って自身を取り戻し、さまざまな場所に出かけ、さまざまな人に会って生き方を変えたからだ。独りで家に引きこもっていると、いつまで経っても生き方を変えることができず、症状も進行していく。カッコ悪くても恥ずかしくても、人と出会うことが「元気」になるきっかけかもしれない。
※文中の竹内さんとは認知症当事者の方で、外に出るきっかけとなった方です。

(中略)
偏見、自立、そして権利
(中略)
 まず「偏見」についてー。
「最初は私の中にも偏見があり『認知症の人は何もわからなくなり、介護を受ける大変な人』だと思っていました。そして、自分もすぐそのようになり、家族や周りの人に迷惑をかけてしまうのではと思っていたのです。なぜそのように思ったかというと、インターネットを見ても本を読んでも介護の仕方のみで、いただく冊子を見ても、守らなければならない対象として書かれていたからです。認知症は私のほんの一部であり、ほとんどの機能は今までと変わりはありません。ただ、診断直後は気落ちが落ち込んでいただけなのです。でも、周りはそう思ってくれません。診断された次の日から、何もできなくなっていく人と思われたのです。
 認知症の当事者や家族は、なぜ人に知られたくないと思うのでしょう? これまで認知症についての情報が、重度になった人のものばかりだったから、認知症=『困った人』『周りに迷惑をかける人』と思い込んでいるだけだと感じました。だから、偏見の言葉を投げられたことがない当事者も、周りの人から何を言われるだろう、どのように思われるだろうと考えてしまうのです。
 みなさんに知ってもらいたいのは、認知症と診断されてもいきなり重度になるのではなく、その前に必ず初期の時期があることです。
「自立」についてー。
「自立とは、サポートを受けながら、自分でできることは自分でやる。当たり前のことです。でも、認知症と診断されると、『何もできない人』に思われます。そのために『何かあったら誰が責任をとるの?』とよく言われます。この一言で、当事者のやりたいことがすべて奪われるのです。
 誰だってリスクのある生活を送っています。包丁を使えば手を切るかもしれない。仮に手を切っても、自分で行ったことならだれも文句は言わないし、自分で責任をとります。それなのに認知症という診断名がついただけで、リスクのない生活、自分で責任を取らない生活になるのです。こんなの、おかしいと思いませんか?
 今までは、自立することを奪っても、守ることがやさしさだと勘違いしてきたからそうなったのです。守るのではなく、一緒に寄り添い、自立ができるように手助けをすることが、当事者を前向きにさせます。周りの人は、自分が当事者と同じことをされたらどう思うかを考えて行動してほしい。また当事者も、他人に迷惑をかけているからと遠慮せず、自立するために思い切って周りの人と話し合ってほしい」
(後略)

★出典元 奧野修司著「ゆかいな認知症 介護を「快護」に変える人」(講談社現代新書発行)
書籍 「ゆかいな認知症 介護を「快護」に変える人」